骨の音を聴くまで

吉村昭『少女架刑』の、死んで初めて感覚が研ぎ澄まされるという逆説を、意識の「減圧弁」仮説と現代の脳研究のあいだに置いてみる。

吉村昭の短編「少女架刑」は、少女が息を引き取る場面から始まる。

呼吸がとまった瞬間から、急にあたりに立ち込めていた濃密な霧が一時に晴れ渡ったような清々しい空気に私はつつまれていた。澄み切った清冽な水で全身を洗われたような、爽やかな気分であった。

小説の書き出しは、たいてい生の側にある。目が覚める、朝が来る、扉が開く。この短編は逆から入り、死んだ瞬間を、恐怖でも暗転でもなく、霧の晴れた清々しさとして差し出す。語り手の少女は、もう息をしていない。それなのに、というより、それゆえに、彼女の感覚はほどけるように開いていく。

私は、自分の感覚が、不思議なほど鋭く研ぎ澄まされているのに気づいていた。家の軒から裏の家の軒にかけて、雨粒をはらんだ蜘蛛の糸が、窓ガラス越しに明るくハンモック状にたれているのがまばゆく目に映じている。

蜘蛛の糸の一本、そこに宿った雨粒までが見えている。さらに、音がくる。

軒先から落ちる雨滴の音――それが落下する個所でそれぞれ異なった音色を立てていることも鮮明に聴き分けることができた。

一粒ごとに違う音色を聴き分ける耳。生きているあいだ、そんな聴き方をしたことはなかったはずだ。死の直後に、感覚がいっせいに開く。

01生の側では届かなかった細部

この逆説を、まず素直に受け取ってみたい。私たちは、生きているあいだ、周囲のほとんどを取りこぼしている。いま、この文を読んでいるあなたの視野の隅には、机や壁や窓が映っているはずだ。だが、そのどれも見えていない。皮膚に触れる衣服の感触も、遠くの車の音も、たいていは意識に上ってこない。取りこぼしているというより、上げないようにしている。もし雨滴の一粒ごとの音色まで届いてしまったら、私たちは思考もままならないだろう。

だから少女の感覚は、能力が増したのではない。ふだん働いている「絞り」が、死とともにゆるんだと読める。彼女は新しい力を得たのではない。もともと世界に満ちていた細部が、遮るものを失って流れ込んできただけだ。

似た感覚は、生の側にも切れ端として残っている。白石一文の短編「草にすわる」で、主人公はただ草の上に腰を下ろす。地中へ伸びていく草の根の営みから、地球の裏側の気配までが、自分の身体の一部のように感じ取れる。強い薬物を摂った人が、自分と世界の境目が溶けていくと語ることもある。どれも、身体という錘がふっと軽くなった瞬間の報告に見える。私たちを地面に、いまここに、縛りつけておく錘。それが束の間ゆるむと、世界のほうがなだれ込んでくる。

02減圧弁という古い比喩

身体が世界を絞っている、という発想は、それほど新しいものではない。1954年、アルダス・ハクスリーは『知覚の扉』で、こう述べた。脳と神経系と感覚器官の役割は、生み出すことではなく、排除することにある。無数にある知覚の可能性を、生き延びるのに必要なわずかな一筋へと漏斗で落としていく。ハクスリーはこの絞りの装置を「減圧弁(reducing valve)」と呼んだ。

この考え自体は借り物だと、彼は正直に書いている。下敷きにしたのはケンブリッジの哲学者C・D・ブロードで、ブロードはさらにベルクソンの記憶論に連なっていた。ベルクソンは『物質と記憶』で、脳を記憶や知覚を選び取り、抑え込む器官として描いた。脳は世界を映さない。世界のほとんどを締め出すことで、生存に役立つ像を結ぶ。減圧弁の比喩は、この系譜の先端にぶら下がっている。

ここで一つ、正直に線を引いておく。減圧弁は詩的な着想であって、証明された脳の仕組みではない。ハクスリーもブロードも、実験でそれを示したわけではない。彼らが差し出したのは、世界はいつも溢れていて、私たちの身体はそれを堰き止めている、という見立てだ。見立てはうつくしい。うつくしいことと、正しいことは、別の話として置いておく。

03弁をいじると、何が起きるか

とはいえ、この古い比喩に手が届きそうな研究は、まったくないわけではない。脳には、外界の刺激がなくても休みなく働き続けるデフォルト・モード・ネットワークと呼ばれる領域群がある。自分についての物語、過去の反芻、未来の段取り。「わたし」という感覚の土台をなす回路だと考えられている。

ロビン・カーハート゠ハリスらの研究では、シロシビンのようなサイケデリックを摂ると、このネットワークの活動が落ちることが観察された。そして活動が落ちるほど、被験者は自我が溶けていく感覚や、世界と一つに結ばれる感覚を強く報告した。彼らはこれを「エントロピーの高い脳」という仮説にまとめている。ふだん脳を秩序立てている強い予測が弱まると、感覚の入力が生のまま前に出てくる、という筋書きだ。

減圧弁の比喩に、うっすら重なって見える。だが重なって見える、以上のことは言えない。研究が示したのは、弁に相当するらしき回路をいじると知覚の質が変わる、という相関までだ。弁が開けば真の世界が現れる、とは誰も証明していない。ハクスリーの詩と神経科学の観察を等号で結んでしまえば、それはもう科学ではない。こちらの願望である。

04死は、弁を開くのか

では、死はどうか。少女架刑が読者の前に差し出したのは、まさにこの一点にほかならない。息がとまった瞬間に、弁は最大まで開くのか。

死にゆく脳を測った研究は、実際にある。ジモ・ボルジギンらのチームは、心臓が止まった直後のラットの脳で、全体が同期した高い周波数の脳波が急に立ち上がるのを記録した。2023年には、亡くなっていく数名の患者の脳波にも、同じような活動の高まりが見つかっている。心臓が止まり、酸素の供給が絶たれたあとの脳が、静かに消えていくと思いきや、いったん激しく燃え上がる。

これを「死の間際に世界が鮮明になる証拠だ」と読みたくなる誘惑は、強い。少女が聴いた雨滴の音色が、この脳波の高まりのなかで鳴っていたのだ、と。けれど研究者たちは慎重だ。測れたのは電気的な活動の高まりであって、その脳が何を感じていたかは、本人が亡くなっている以上、確かめようがない。同じ現象を、消えゆく灯が最後にひときわ明るく燃える残り火として読むこともできる。開いた弁の向こうに世界が広がっていたのか、それとも弁ごと闇に沈む直前のまたたきだったのか。どちらとも、決められない。

05恐怖は、身体の側に

死んだあとに意識がどうなるのかは、そもそも証明できない。これは弱みではない。この問いの性質そのものだ。証明できないからこそ、人は昔から、そこに自分の願いや恐れを投げ込んできた。天国と地獄、輪廻、無。これらはどれも、生きている者が死にどう向き合うかをめぐる選択であって、観測された事実ではない。

わかるのは、テクストがしていることだ。この短編は死を恐怖として描かず、少女の意識は、悲鳴も後悔もあげない。ただ淡々と、自分の身体がこれから献体され、切り開かれ、やがて焼かれて骨になっていくまでを見つめる。死への恐怖は、突き詰めれば肉体の感覚なのだろう。痛みを避け、損なわれることを厭う、生きた身体の反応。その身体から離れてしまえば、恐怖もまた、置いてこられるのかもしれない。少女の清々しさは、そう読める。

メメント・モリ――死を忘れるな、という古い戒めは、たいてい生の側から死を見据える言葉として使われる。この短編はそれを裏返す。死の側から、生を、身体を、静かに眺めてくる。

06骨の、崩れる音

短編の最後で、少女はもう骨になり、納骨堂に収められる。そこで少女は、堂のなかに満ちる音を聞く。

ぎしッ、それはあきらかに音であった。かなりはっきりとした音であった。その音は、古びた棚の方向から聞こえてくる。 (中略) 私は、ようやく納得できた。その音は、あきらかに古い骨壺の中からきこえている……。古い骨が、壺の中で骨の形を保つことができずに崩れている……。音は、堂の中いたる所でしていた。それは間断のない音の連続であった。時折り、一つの骨が崩れることによって骨壺のなかの均衡が乱れ、当然、粉に化すらしい音がきこえることもあった。

堂じゅうに並んだいくつもの古い骨壺で、先に骨になった者たちが崩れつづけている。その音の充満したただなかへ、彼女は納められた。

堂の中には、静寂はなかった。それは、音の充満した世界であった。骨のくずれる音が互いに鳴響しあっている、音だけの空間であった。私の骨は、すさまじい音響の中で身をすくませていた。

書き出しで雨滴の一粒ごとの音色を聴き分けた耳は、最後に、無数の骨の崩れる音のただなかに置かれる。開いた感覚は、清々しさだけを届けたわけではなかった。研ぎ澄まされたまま、少女は音の洪水に身をすくませる。弁は、開いたままだ。

世界はいつも溢れていて、私たちの身体はその大半を堰き止めている――この見立てが正しいかどうかは、わからない。死がその堰を開くのか閉じるのかも、わからない。ただ、わからないその場所で、少女は雨滴を聴き、骨を聴いた。清々しさも、すくむような音響も、区別なく流れ込んでくる場所だ。その向こうに何が満ちているのか知っているのは、死者だけだ。私たちには、堂で骨の音を聴くまで、分からない。

出典

一次資料

  1. 吉村昭「少女架刑」。初出年は資料により異なり、『日本大百科全書』は1960年とする。単行本『少女架刑』は南北社、1963年刊。中公文庫『少女架刑――吉村昭自選初期短篇集Ⅰ』中央公論新社、2018年、ほかに収録。引用は本文冒頭・末尾より。
  2. Aldous Huxley, The Doors of Perception, Chatto & Windus, 1954.(「reducing valve」の比喩)
  3. C. D. Broad, "The Relevance of Psychical Research to Philosophy," Philosophy 24, 1949, pp. 291–309.(ハクスリーが依拠した「排除的」機能の議論)
  4. Henri Bergson, Matière et Mémoire, 1896.(脳を選択・抑制の器官とする記憶論)
  5. 白石一文「草にすわる」(短編集『草にすわる』所収)。

補足資料

  1. R. L. Carhart-Harris et al., "Neural correlates of the psychedelic state as determined by fMRI studies with psilocybin," PNAS 109(6), 2012, pp. 2138–2143.
  2. R. L. Carhart-Harris et al., "The entropic brain," Frontiers in Human Neuroscience 8:20, 2014.
  3. J. Borjigin et al., "Surge of neurophysiological coherence and connectivity in the dying brain," PNAS 110(35), 2013, pp. 14432–14437.
  4. G. Xu et al., "Surge of neurophysiological coupling and connectivity of gamma oscillations in the dying human brain," PNAS 120(19), 2023, e2216268120.