
Let's Go Heavenと住職は言った
法事で住職が放った「羯諦とは英語でLet's Go Heaven」。時制も行き先も間違えた三重の誤訳がなぜ届いたのかを、訳されない真言の来歴から辿る。
実家の法事は、読経より法話が長い。この住職が話好きなのである。お勤めが済むと祭壇に背を向けて座り直し、仏様の小話やありがたい訓話を、正座の限界を試すように長々と聞かせてくれる。その日も足の感覚が薄れかけた頃だった。住職は一同を見回して、こう言った。般若心経の羯諦とは、英語で言えばLet's Go Heavenであります。
本堂の空気が少しゆるんだのを覚えている。ぎゃていぎゃてい、と意味も知らずに唱えてきたあの音の塊が、突然ポップスのサビのように聞こえたからだ。ありがたいはずのお経が、妙に軽い。おかしみと一緒に、この軽さは何なのかという小さな引っかかりが残った。帰りの車の中からずっと、それを考えている。
01完了形の呪文
般若心経の末尾には、漢文の中に意味を訳されないまま埋め込まれた一節がある。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
読みはぎゃていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか。サンスクリットの音を漢字に写した真言で、元の句はgate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhāである。
手がかりは冒頭のgate(行った、の意)にある。「行く」を意味する動詞の過去分詞であり、直訳すれば「行った」。さあ行こう、ではない。行為はすでに完了している。仏教学者エドワード・コンゼによる有名な英訳は、この完了をそのまま写す。
Gone, gone, gone beyond, gone altogether beyond, O what an awakening, all-hail!
行ってしまった、すっかり向こうへ行ってしまった。ああ、なんたる目覚め、幸いあれ。(訳: 未明)
岩波文庫の中村元・紀野一義訳も「往ける者よ」と、渡り終えた者への呼びかけの形を取る。文法の細部には諸説あるが、どの説でも「これから行こう」という勧誘にはならない。住職の英語は、時制からしてずれていたことになる。ちなみにgateの音が英語のgoに似ているのは偶然である。語源をたどるとgam-はむしろcomeの親戚にあたり、goとは系統の違う他人の空似にすぎない。
02行き先の問題
ずれはもうひとつある。Heavenだ。真言のpāra(彼岸、原義は川の向こう岸)が指すのは、生まれ変わりを繰り返すこちら側の岸に対する、輪廻の外側である。悟りの岸、と言い換えてもいい。一方、仏教にも「天」と呼ばれる世界はあるが、これは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)という生まれ変わりの行き先の最上階にすぎない。天人は途方もない長寿を楽しみ、そして寿命が尽きれば、また別の道へ生まれ直す。天は輪廻というビルの最上階であって、ビルの外ではないのだ。
キリスト教のHeaven、永遠の救済の場に似たものを仏教に探すなら、彼岸よりむしろ浄土のほうが近い。つまり住職の一言は、時制を間違え、行き先も間違えていた。よく聞けばtoも抜けている。Let's go to Heavenですらない、三重の誤訳である。それなのに、あの本堂では確かに何かが伝わった――足の痺れを忘れる程度には。
03訳さない翻訳
種明かしを急ぐ前に、この真言のもうひとつの来歴に触れておきたい。羯諦羯諦は、漢訳から千三百年あまり、意味を訳されないまま唱えられてきた言葉なのである。
7世紀、玄奘三蔵は般若心経をサンスクリットから漢文へ移すとき、本文はすべて意味で訳しながら、末尾の真言だけを音写のまま残した。後代の仏教書『翻訳名義集』はこの姿勢を「五種不翻」、訳してはならない五つの場合として整理している。その筆頭が秘密故不翻――秘密の言葉は訳さない、ということだ。真言は意味の伝達装置ではなく、音そのものに力が宿るとされた。訳した瞬間に、こぼれ落ちるものがあると考えられたのだ。この方針は言語を替えて今も生きていて、たとえばベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンの英訳版でも、真言はサンスクリットの音のまま置かれている。
だからわたしたちが羯諦羯諦を音の塊として聞いてきたのは、怠慢でも無教養でもない。千三百年前に、そう設計されていた。訳さないことも翻訳の一形態であり、この経はその方針を選んで生き延びてきた。住職はその封を、法事の座興めかして破ってみせたわけである。
04否定の階段
では、意味で訳されている本文のほうは何を言っているのか。般若心経の本文は、おおむね否定でできている。
冒頭近くの「色即是空」は、あらゆる物質的存在(色)には固定した実体がない(空)と述べる。空は「何もない」という虚無ではない。すべては条件が重なって成り立つ仮のかたちであり、それ単独で存在するものはない、という洞察である。空の哲学を体系化した龍樹は『中論』で、空を虚無と読み違えることを、毒蛇の掴み方を誤るようなものだと戒めた。
そこから経は、否定の階段を駆け上がっていく。
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 (中略) 無苦集滅道 無智亦無得
目も耳も鼻も舌もない。苦しみの成り立ちと解き方を説いた四諦、つまり仏教の根本教義もない。悟る智慧もなければ、得られるものすらない。教えを載せてきた土台ごと否定し尽くす徹底ぶりで、読んでいて足場が消えていくような箇所である。
そして否定が極まった直後、経は不意打ちのような宣伝を始める。この般若の智慧こそ偉大な呪文(是大神呪)であり、すべての苦を除いて真実で偽りがない(能除一切苦 真実不虚)。そうして高らかに示されるのが、あの意味を持たない音、羯諦羯諦なのである。得るものは何もないと言った同じ舌が、すべての苦を除くと断言する。この段差は古来、読む者を戸惑わせてきた。
05意味の筏
ブッダは自分の教えを筏にたとえたことがある。教えは川を渡るための筏であって、渡り終えた者が岸で担いで歩くためのものではない(中部経典「蛇喩経」)。
この筏を頭に置いて般若心経を通しで読むと、あの段差の見え方が変わる。本文の哲学は、意味でできた筏である。色即是空に始まる否定の連打は、読む者を乗せたまま、概念という概念を川に捨てながら進んでいく。感覚を捨て、教義を捨て、最後に「得るものすらない」と筏に残った荷物を捨て切ったところで、意味の言葉が尽きる。その先に置かれているのが、意味に還元できない音だ。
意味を手放せと説いてきた経が、最後の一節で自分の意味を手放し、音になる。構成そのものが、教えの実演になっているのだ。突飛な読みではないらしく、書家で仏典翻訳者の棚橋一晃は、真言の音は知性ではなく身体全体に響くと書いた。空海に至っては『般若心経秘鍵』で、この真言部分こそ経の核心であり、言葉の分析が届かない次元の言葉だと位置づけている。
06編集の偶然
もっとも、この読みには文献学の冷や水がかかっている。仏教学者ジャン・ナティエは1992年の論文で、般若心経の哲学部分は先行経典の抜粋を中国で再編集したものであり、真言は別系統の呪文集から持ち込まれて接ぎ合わされた、と論じた。この説に立てば、哲学の果てに音が来るあの構成は、誰かの設計ではなく編集の偶然ということになる。入門書の定番の枕である「大般若経600巻のエッセンスを凝縮した」という説明も、調べてみると時系列が怪しい。玄奘が心経を漢訳したのは649年、600巻の大般若経を訳し終えたのはその14年後で、凝縮されたはずのダイジェストのほうが先に世に出ている。実際、古代インドの注釈者たちからして、全否定の直後に呪文の絶賛が来る流れの扱いに困っていた形跡がある。ナティエ説には日本の仏教学界から強い反論が出ており、勝負はついていない。
だから、こう言うにとどめたい。設計か偶然かは証明できない。それでもこの経は千年以上、この順番で、意味の後に音が来るかたちのまま唱え継がれてきた。膨大な経典群の中からこの262文字(数え方には諸説ある)が選ばれ、写経され、暗誦されてきた。筏は、誰が組んだかではなく、川を渡れるかどうかで残る。
07本堂の音
そう考えると、住職のLet's Go Heavenも違って見えてくる。時制も行き先も間違えたあの英語は、意味がわからないまま声に出され、その場の空気を変えるという真言の本来の使われ方に、奇妙なほど忠実だった。意味への執着を手放せと説く経が、訳し間違いくらいに目くじらを立てるとも思えない。
それに、toの抜けた英語が正しく響く場所も、ひとつだけある。スタジアムの観客席だ。英語圏の応援コールはLet's go Mets、Let's go Yankeesと、toを付けずに名前を呼ぶ。あれは移動の提案ではなく、呼びかけである。掛け声として聞くなら、Let's Go Heavenは壊れていない。そして呼びかけこそ、学者たちがgateに読み取ってきた文法――往ける者よ、という呼格――そのものだった。文として三重に間違えた英語は、声に出された瞬間、原文と同じかたちに着地していたのである。
帰り際、住職は上機嫌で次の法要の日取りを確かめていた。あの人はきっとまた長々と話すのだろう。羯諦羯諦。もう行ってしまった人たちへの呼びかけは、まだこちらの岸にいる者の口の中で、さあ行こうという歌に変わる。どこへ行くのか、経は最後まで言わない。
出典
一次資料
- 玄奘訳『般若波羅蜜多心経』(大正新脩大蔵経 No.251)。経文の引用はSAT大正藏經テキストデータベースで照合した。
- 『中部経典』22「蛇喩経」(Alagaddūpama Sutta)。筏の喩え。
- Edward Conze, Buddhist Wisdom Books: Containing the Diamond Sutra and the Heart Sutra, George Allen & Unwin, 1958.
- 中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』岩波文庫。
- 空海『般若心経秘鍵』。
- 龍樹『中論』観四諦品第二十四。
補足資料
- Jan Nattier, "The Heart Sūtra: A Chinese Apocryphal Text?", Journal of the International Association of Buddhist Studies 15(2), 1992, pp.153–223.
- Donald S. Lopez Jr., Elaborations on Emptiness: Uses of the Heart Sūtra, Princeton University Press, 1996. および同著者 "A Closer Look at the Heart Sutra", Tricycle.
- 石井公成「『般若心経』をめぐる諸問題――ジャン・ナティエ氏の玄奘創作説を疑う――」2015年。
- 法雲『翻訳名義集』。「五種不翻」の出典。
- Kazuaki Tanahashi, The Heart Sutra: A Comprehensive Guide to the Classic of Mahayana Buddhism, Shambhala, 2014.
- 真言宗智山派寺院サイト「空とは何でしょう?――中観派の教えを学ぶ――」


