煙のない警報

割り箸やアイスの棒が怖い、理由もトラウマもない――そんな恐怖症はなぜ生まれるのか。ヘビや高所を説明する進化の物語が届かない先を探る。

高校のころ、割り箸を異様に嫌う先生がいた。

弁当に割り箸が添えられていると、その先生は箸だけを紙ナプキンにくるみ、視界の外へ押しやった。アイスの棒も同じで、食べ終えて棒が剥き出しになると、虫でも見るように目をそらす。口に入れるなど、とんでもない、という顔をした。あるとき生徒のひとりが理由を訊いた。先生は少し困ったように、何かあったわけではない、昔からただ木の棒が駄目なんだ、と答えたそうだ。

きっかけも、こわい目に遭った記憶もない。ただ、木の棒がこわい。この、理由のない怖さをどう考えればいいのか。

誰にでも、うまく説明のつかない苦手がひとつやふたつはある。高い場所で足がすくむ、ヘビの写真から目をそらす、狭いエレベーターで息が浅くなる。こうした恐怖のいくつかは、進化の物語できれいに説明がつく。高所から落ちれば死に、ヘビに噛まれれば死ぬ。祖先の環境で命に関わったものを、生まれつきこわがる個体のほうが生き延びやすかった。だからその怖さは、脳の欠陥ではなく、むしろ正しく設計された装置の働きだ――こういう筋書きは、聞いていて心地よい。

問題は、木の棒である。割り箸で命を落とした祖先など、たぶんいない。この怖さに進化はどんな説明を用意できるのか、恐怖症は脳がまともに働いた結果なのか、それとも、どこかで配線を間違えた結果なのか。

01準備された恐怖

心理学者のマーティン・セリグマンは、1971年の論文「Phobias and preparedness」で、ひとつの食い違いを指摘した。実験室でつくった恐怖――たとえば特定の音を電気ショックと組み合わせて覚えさせた恐怖――は、ショックをやめればすぐに消えていく。ところが現実の恐怖症は、なかなか消えない。しかも、ヘビやクモや高所といった、決まった対象に偏る。人が車や電気コンセントを、ヘビと同じ強さでこわがることは、めったにない。

セリグマンは、この偏りを「準備性(preparedness)」という言葉で説明しようとした。人間の脳には、進化の過程で繰り返し命を脅かしてきた対象を、素早く・強く・消えにくいかたちで学習する下地があらかじめ備わっている。ヘビへの恐怖が身につきやすいのは、ヘビをこわがる下地が、あらかじめ「準備」されているからだ、と論じた。ただしセリグマンの論文そのものは理論の提案であって、実験でそれを示したわけではない。

その下地を、サルを使って確かめようとしたのが、スーザン・ミネカとアルネ・オーマンらの一連の研究だ。1984年の実験では、野生で育ったアカゲザルはヘビをこわがったが、実験室で生まれ育ったサルはこわがらなかった。恐怖は遺伝子に直接書き込まれているわけではないらしい。ところが続く1989年の実験が面白い。実験室育ちのサルに、別のサルがヘビにおびえる映像を見せると、観察したサルはたちまちヘビ恐怖を覚えた。ここまでは、ただの真似に見える。だが同じ映像を編集し、おびえる相手を花にすり替えて見せても、サルは花をこわがるようにはならなかった。恐怖は何にでも伝染するのではなく、ヘビのような「こわがる下地のある対象」にだけ、選んで伝染した。

オーマンとミネカは2001年、こうした知見をまとめて「進化した恐怖モジュール」という考えを示した。脳には、進化的に危険だった対象に対してだけ自動的に立ち上がる、専用の恐怖回路がある、という見立てだ。

ここまでの物語は、よくできている。よくできすぎている、と言ってもいい。じつは準備性の理論は、その後の再現がふるわない。2018年にオーケシュ・オースらが23の研究・32の実験をまとめ直したところ、統計的にはっきりした効果が出たのは10件ほど(およそ3割)にとどまり、準備性は特定の恐怖症の起源を説明しない、と結論づけられた。その後まもなく、マルコ・デル・ジュディチェが解析手法の限界を突いて反論し、理論を早々に葬るべきではないと述べたが、これも全面的な擁護ではない。準備性は、証明された定説とは言えない。いまも揺れている仮説だ。それでも、進化の物語が持つ引力は強い。怖さに理由をつけてくれるからだ。

02鳴りすぎる警報

進化の物語には、恐怖症を「バグ」から救い出す、もうひとつの筋がある。

台所の火災報知器を思い浮かべてほしい。パンを焦がしただけでけたたましく鳴るのは煩わしいが、あの過敏さは故障ではない。むしろ、設計どおりのふるまいだ。報知器を設計するとき、天秤にかけられるのは二種類の失敗である。火事でもないのに鳴る空振りと、本物の火事を見逃す取りこぼし。前者の代償はうるさいだけだが、後者の代償は焼死だ。両者の重みがこれほど釣り合わないなら、機械は空振りを大量に許すほうへ、つまり鳴りすぎるほうへ調整するのが正しい。

進化精神医学のランドルフ・ネッセは、この理屈を防御反応そのものに当てはめ、「煙探知機の原則(the smoke detector principle)」と名づけた。2001年の論文で、彼は不安や咳や嘔吐といった防御反応がしばしば過剰に見える理由を、この費用の非対称から説明している。危険を取りこぼす代償が大きいほど、システムは誤報を厭わなくなる。過剰に見える反応は、壊れたシステムではなく、うまく調整されたシステムの正常な産物なのだ。

ネッセは精神科医のアイザック・マークスとの共著論文「Fear and Fitness」(1994年)で、この見方をはっきりと言い切っている。

Anxiety disorders, like disorders of other defensive systems, are mainly disorders of regulation that entail excessive or deficient responses.

不安障害は、他の防御システムの障害と同じく、主として調整の障害であり、過剰または不足した反応を伴う。

(訳: 未明)

不安障害は、脳のどこかが壊れて生まれるのではない。正常に働く防御装置が、強く鳴りすぎたり、弱く鳴らなすぎたりする――その調整のずれとして生まれる。恐怖症を「欠陥」と呼ぶ素朴な見方は、ここでひっくり返る。同じ理屈は、心理学の側からも支えられている。マーティ・ヘイゼルトンとダニエル・ネトルは2006年、ヘイゼルトンとバスが2000年に唱えた「エラー管理理論」を、判断のかたより全般へ押し広げた。見逃しと空振りの代償が釣り合わないとき、脳は代償の軽いほうの誤りへ意図的にかたよるのが合理的だ。彼らはそう論じ、ネッセの原則をその一例に挙げた。恐怖症とは、鳴りやすいほうへ倒しておいた警報が、実際に鳴っている状態にすぎない。

ただし、忘れてはいけないことがある。火災報知器は、少なくとも煙に反応している。パンの焦げは火事ではないが、それでも「火事らしさ」を確かにまとっている。空振りにも、空振りなりの根拠がある。ヘビへの恐怖も、集合体への恐怖も、この筋なら「本物の危険にどこか似たもの」への空振りだと説明できる。では、その「似ている」という説明は、どこまで信じられるのか。

03毒から病へ

蓮の実が水面から抜けたあとの、種の抜け落ちた花托。蜂の巣や、皮膚にびっしり並んだ発疹の写真。小さな穴やぶつぶつの集まりを見ると、ぞわりと鳥肌が立ち、目をそむけたくなる人がいる。集合体恐怖症(トライポフォビア)と呼ばれる。ギリシャ語で穴を意味するトリュパと、恐怖を意味するフォボスをつないだ言葉だ。ヘビや高所とちがって、穴の集まりそのものが人を襲うことはない。この怖さに、進化はどんな物語を用意したのか。

2013年、ジェフ・コールとアーノルド・ウィルキンスが「Fear of Holes」という論文を発表した。彼らは、集合体恐怖症を引き起こす画像と、ヒョウモンダコやある種の毒ヘビといった危険な生物の画像とを画像解析にかけた。すると両者は、中くらいの細かさの模様で強いコントラストを持つという、共通の視覚的特徴を備えていた。つまり、穴の集まりは毒々しい生物と「同じ見た目」をしている。だから脳は、意識に上らないところで危険を嗅ぎつけ、身をすくめる。生存に役立つ、まっとうな警報だ、と論じた。煙探知機の物語に、ぴたりとはまる。穴の怖さは、毒への空振りだったのだ、と。

ところが、この物語は書き換えられていく。2018年、ウラジスラフ・アイゼンバーグらが、被験者の瞳孔の動きを測った。穴の集まりを見たとき、人の瞳孔は縮んだ。恐怖に身構えるとき瞳孔が開くのが一般とされるのとは、逆の動きである。瞳孔が開くのは行動へ移る恐怖の反応、縮むのは対象を遠ざけようとする嫌悪の反応に近い。集合体が引き出していたのは、怖さというより、けがれたものを避ける気持ちだったことになる。同じ2018年、トム・クプファーとアン・レは、集合体恐怖症とは寄生虫や感染症や皮膚病――びっしりと群がる病のしるし――を避ける反応が、無害な穴にまで過剰に広がったものだと論じた。毒への恐怖というより、病への嫌悪だ、と。

決定的なのは、この転向を、ほかならぬコール自身が受け入れたことだ。2013年に「毒への恐怖」を唱えた当人が、2020年代の総説ではこう書いている。集合体恐怖症を経験する人の多くが報告するのは嫌悪であって、怖さを主要な感情に挙げる人はごくわずかだ、と。最初のきれいな進化の物語は、その提唱者の手で、別の物語に差し替えられた。

ここに、進化で恐怖を説明することの、落とし穴がのぞく。似ているという説明は、後からいくらでもつくれてしまう。穴と毒ヘビが似ていると言われれば、なるほどと思う。穴と病のしるしが似ていると言われても、やはり、なるほどと思う。もっともらしい起源の物語は、対象を選ばずに立ち上がり、そのどれもが「適応」の顔をしている。進化生物学者のスティーヴン・グールドとリチャード・ルウォンティンは、かつて、何にでも適応の物語をあてがう態度を、教会の装飾を引き合いに戒めた。建物の構造上どうしても生じた三角の隙間を、あたかも装飾を飾るために設計されたかのように語ってしまう――適応の物語には、そういう後付けの誘惑がつきまとう。

もちろん、集合体恐怖症の決着がついたわけではない。嫌悪が優勢だとしても、恐怖の関与を消し去れたわけではない。ただ、当の科学者が自ら物語を書き換えたという事実は、進化の説明のなめらかさと当てにならなさを、そのまま映している。

同じことは、じつは準備性のときにも起きていた。ヘビをこわがる下地があるという見立ては、まとめ直してみると、思ったほど残らなかった。片方は再現の失敗として、もう片方は提唱者の転向として現れたが、崩れ方の根は同じところにある。どちらの物語も、対象を先に決めてから、その対象に合う危険を後ろに探しにいっていた。ヘビが先にあって、危険が探された。穴が先にあって、毒が探された。順序が逆なのだ。

04何にも似ていない

木の棒に戻ろう。割り箸は、毒ヘビに似ていない。病のしるしにも似ていない。焦げたパンが火事にどこか似ているのとは違って、木の棒はおよそ、いかなる危険にも似ていない。煙探知機の物語は、「本物の危険に似たもの」への空振りとして恐怖を説明してきた。だが木の棒の前では、その似姿がどこにも見あたらない。これは、煙のない場所で鳴っている警報だ。

木への恐怖には、xylophobia という呼び名が一応ある。だが、この語を裏づける症例報告や研究は、探してもほとんど出てこない。恐怖症のリストを埋めるために、ギリシャ語をつなげて作られた言葉に近い。名前はあるのに、中身がない。名前をつけたところで、なぜ木なのかは一文字も説明されない。

中身のあるほうへ目を移そう。ボタン恐怖症という、これも一見ばかげた恐怖症がある。こちらには、まっとうな症例報告がある。2002年、リサ・サーヴェドラとウェンディ・シルヴァマンは、ボタンを極端にこわがる9歳の男の子の事例を報告した。その子の反応の中心にあったのも、恐怖よりむしろ嫌悪だった。2022年にはケイトリン・マクレーらが、ボタン恐怖症の人を詳しく調べ、進化とは無縁のただのボタンが、ヘビやクモに向けられるのと似た注意と身構えを引き出すことを示した。ボタンで死んだ祖先はいない。それでも脳は、ボタンに警報を鳴らす。

正式な診断の枠組みも、こうした「説明のつかない対象」の存在を、こっそり認めている。精神医学の診断基準であるDSM-5-TRは、特定の恐怖症を動物・自然環境・血液や注射・状況という四つの型に分ける。そして、それらに収まらないものを「その他の型」としてひとまとめにする。そこに例示されているのは、大きな音や、仮装した人物をこわがる子どもだ。仮装したキャラクターに命を奪われた祖先も、やはりいない。特定の恐怖症は、生涯のうちにおよそ8人にひとりが経験するありふれた現象だ。その裾野には、進化のどんな物語にも回収されない対象が静かに広がっている。

もうひとつ、先生の言葉を思い出したい。「何かあったわけではない、昔からただ駄目なんだ」。恐怖症には、こわい目に遭った瞬間をどうしても思い出せない型がある。ロス・ポールトンとロス・メンジーズは、高所や水への恐怖の一部が、こうした「きっかけの記憶をともなわない」かたちで現れることを指摘した。水恐怖の子のおよそ8割が、初めて水に触れたときからすでにこわがっていた、と親に見てとられている。学習した覚えがないのに、そこにある恐怖。彼はその空白を、生得の証拠として読んだ。先生の「昔からただ駄目なんだ」は、この型にそのまま重なる。恐怖がどうやって入ってきたのかという道すじも、対象が何に似ているのかという理由も、どちらも欠けている。

05その人だけの警報

恐怖症を説明する部品は、ここまでで出そろっている。進化が準備した学習の下地。費用の非対称ゆえに鳴りすぎるよう調整された防御装置。毒への恐怖と、病への嫌悪。きっかけの記憶を欠いたまま立ち上がる回路。これらを組み合わせれば、人がヘビや高所や穴の集まりをこわがる理由は、かなりのところまで語れる。恐怖症は脳のバグではない。命を守るための警報が、正しく働きすぎた跡であるという結論は、たしかに動かせそうにない。

それでも、先生の割り箸を目の前にすると、説明は止まってしまう。恐怖を生み出す装置の仕組みは、余さず記述できる。だが「なぜ先生が、木の棒をこわがるか」の理由だけは、装置のどの部品からも出てこない。煙探知機は煙で鳴る。似姿という煙があるからこそ、警報の理屈はそこまで届いた。ところが先生の警報には、煙がない。似ているものが、どこにもない。仕組みがどれほど正常でも、その正常さは、対象がなぜ木の棒に定まったのかを、ついに教えてくれない。

先生は「何もない」と言い、先に触れた水恐怖の子の多くも、初めからこわがっていたという。学習した覚えは、どこにも残っていない。ポールトンらはこの空白を生得の証拠と読んだが、わたしは、ひとりの身体だけに刻まれた嫌悪と読む。記憶に残っていないことと、何も起きなかったことは、同じではない。出来事のほうは忘れられても、それが刻んだ嫌悪だけが、底に沈んでいることはある。たとえば、ずっと幼いころ、割り箸のささくれが手の腹や口の内側に刺さったとする。出来事としては消え去っても、その痛みと嫌悪感だけが、理由も名前も失くしたまま、木の棒という対象に残される。これは、進化が用意したどの部品でもない。個体がなにに触れ、なにを不快として刻み、なにを忘れるかは、一人ずつ違う。だから、どの型にもおさまらない恐怖症が、その人ひとりのイレギュラーとして生まれる。

もちろん、これは証明できない。忘れられている以上、確かめる術もない。そのうえ、これは後付けである。説明のつかない対象を先に置き、それに合う出来事を後ろから探しにいく。さきほど順序が逆だと呼んだ、あの手つきそのものだ。グールドとルウォンティンが戒めたのも、この向きだった。偶然できた隙間を、飾るために設けられた場所として読む手つき。わたしがいましているのも、それと変わらない。

違うのは、あてがう先だけだ。進化の物語は、種に配られた設計として起源を語る。だから対象を選ばず、いくらでも立ち上がる。ヘビにも、穴にも、木の棒にも。わたしがあてがったのは、一人の身体にしか届かない出来事だ。ほかの誰にも当てはまらず、ほかのどの恐怖症も説明しない。使い回せないかわりに、外れたときの逃げ場もない。

それでも、わたしはそこに、たった一度の体験があったと読む。進化は種に配り、体験は個に刻む。ヘビへの恐怖が種の遺産なら、先生の木の棒は、誰も居合わせなかった一度きりが、一人の身体にだけ残した痕跡だ。弁当に添えられた箸を紙ナプキンにくるみ、視界の外へ押しやる。あの手つきは、本人がもう覚えていない何かを、いまも正確になぞっていた。

出典

一次資料

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補足資料

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