目盛りのなかのわたし

双極性障害で処方された薬は、気分の波を止めると同時に、感情を平らな底へ張りつかせた。薬が回す気分のダイヤルに、素の自分を指す目盛りはあるのかを辿る。

机の上に、四日前に途中で止めたデザインが開いたままだった。線を一本足せば済むのに、それがどうしても手につかない。良いとも悪いとも思わず、続きを作りたいという気持ちが、そもそも湧いてこない。作ることが生活のほとんどだったのに、その生活の中心に、なにも感じない穴が空いていた。

この穴には、心当たりがあった。数日前からバルプロ酸を飲みはじめていた。気分の波をおさえるための薬で、双極性障害と診断されたわたしに処方されたものだ。標準を零とするなら、あるときは天井近くまで舞い上がり、あるときは床に張りついて、振れ幅の大きな波の上で暮らしていた。薬は、その波をきれいに凪がせた。凪いだ先は、しかし零ではなかった。マイナス十くらいのところで平らになり、そこで低く安定した。喜びはなく、どんなものにも興味が向かない。抑うつと呼ばれる状態に、たぶん近かった。

その反対の端も、わたしは知っていた。双極性障害と診断されるより前、わたしは一度、うつと診断されている。渡されたのはSSRI、抗うつ薬だ。飲むと、気分は下がるどころか逆の方へ振り切れて、数か月のあいだ、わたしは止まらなくなった。一睡もせずに作りつづけ、思いついたことにはなんでも手を伸ばした。行動力とだけ呼ぶには、少し過剰だった。

数ミリグラムの化学物質が、わたしの感情を上へ振り切らせ、また下へ張りつかせる。脳のなかの電気信号を少し変えるだけで、性格までがらりと入れ替わる。わたしという主体は、結局のところ身体でしかなかった。その事実を、頭ではなく体で思い知らされることが、怖かった。

01ダイヤルを回される

フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に、その恐怖をそのまま機械にした道具が出てくる。情調オルガンという。朝、目を覚ました人間が、枕元のダイヤルを回して、その日の気分を自分で設定する。番号がそれぞれの情動に割り当てられている。481に合わせれば「未来に開かれている多様な可能性の認識。そして新しい希望」がやってくる。594は「夫のすぐれた判断を快く受容する態度」。主人公のリック・デッカードと妻のイーランは、今日はどの番号にするかを言い合う。

読んだとき、他人事だと思えなかった。SSRIを飲んでいたときのわたしのダイヤルは、快の側へ振り切れたまま固定されていた。バルプロ酸のときは、抑うつの目盛りのところで動かなくなっていた。違うのは一点だけ。イーランは自分でダイヤルを回すが、わたしのダイヤルは、薬が勝手に回していた。

だが、本当に怖かったのは、そこではなかった。ダイヤルには快の目盛りがあり、絶望の目盛りがある。では、そのあいだのどこに、「本当のわたし」の目盛りがあるのか。高みでもどん底でもない、素のわたしを指すはずの番号。それを探したとき、初めて気づいた。その目盛りは、どこにも刻まれていない。

02病を暴いた薬

SSRIがわたしを躁へ振り切らせたことには、後日談がある。あの数か月の暴走は、単なる薬の副作用として片づけられなかった。抗うつ薬を飲んで躁や軽躁へ転じ、それが薬の直接の効き目を超えて続く場合、いまの診断基準(DSM-5)は、それを双極性障害の証拠の側に数える。うつの薬で躁へ転じた事実そのものが、わたしがうつと見えて双極だったことの手がかりになった。テラオとタナカは、抗うつ薬で躁転する患者は、もともと双極性障害である可能性が高いと論じている。

つまり、薬はわたしを別のだれかに作り変えたのではなく、もとから配線されていた設定を、表に引き出したことになる。ダイヤルを回したのは薬だが、そこに「躁」という目盛りがあらかじめ用意されていたのは、わたしの側だった。

躁転がどれくらいの割合で起きるのかは、研究によってばらつきが大きい。2025年のネットワークメタ解析は、抗うつ薬でプラセボより有意に躁転リスクが高いと言える薬は見あたらなかったと報告している。個々の試験での躁転率は、多くが二割に満たないが、ごく小規模な試験では五割に達した例もあった。数字は定まっていない。ただ、双極性障害では抗うつ薬を単剤で使うことに慎重であるべきだという立場は、複数のガイドラインで共有されている。わたしの躁は、その慎重さが向けられる先で起きたことだった。

03平らにするもの

舞い上がった側の話をしたので、こんどは沈んだ側の話をしたい。バルプロ酸の下でわたしが落ちた、あの平らな場所のことだ。

感情が平板になる。この現象には、感情鈍麻(emotional blunting)という名前がある。抗うつ薬を飲んでいるうつの患者を対象にした調査では、およそ半数が、なんらかの感情の鈍りを自覚したと答えている。厄介なのは、鈍るのが苦痛の側だけではないことだ。負の感情が薄まるのと一緒に、喜びや興味といった正の感情まで、一様に薄まる。

これは主観の訴えにとどまらない。健常者にエスシタロプラム(SSRIの一種)を三〜四週間ほど飲んでもらった実験では、報酬や罰から学びとる感受性が、飲まなかった群にくらべて下がった。記憶や注意といったほかの能力はほとんど変わらないのに、報酬や罰への反応だけが選んだように鈍る。うれしいことがうれしく、まずいことがまずく感じられるからこそ、人はそちらへ動いたり、こちらを避けたりする。その感度が絞られると、世界のほうは動いているのに、こちらが動く理由が消える。あの、机の上のデザインに手が伸びなかった感覚を、この言葉はうまく言い当てる。

ただし、正直に置いておかなければならないことがある。ここで挙げた測定は、どれもSSRIについてのものだ。わたしが飲んでいたバルプロ酸そのものについて、感情の平板化を実証した研究は、探しても手薄だった。ある総説は、バルプロ酸の情動面の副作用を双極性障害の患者で調べた研究はほとんど存在しない、とまで書いている。だからわたしのマイナス十の平らさには、それを裏づける専門の数字が、いまのところ足りない。わたしの証言と、文献のあいだには、埋まらない隙間がある。その隙間を、埋めたふりで塞ぎたくはない。

04どちらが素のわたしか

わたしは、薬に平らにされて、自分が消されたと感じた。だが、まったく逆を語る人たちがいる。

精神科医ピーター・クレイマーは、1993年の著書で、プロザックを飲んだ患者たちを描いた。ある女性は、薬を飲んでから、力がみなぎり、よく笑うようになったと評された。彼女が言ったのは、副作用が消えたということではなかった。ずっと探していた自分に、やっと戻れた、という感覚だった。クレイマーは、健康な人がより望ましい状態へ移るために薬を使うこの領域を、美容整形になぞらえて美容精神薬理学と呼んだ。

同じ種類の介入が、片方の人には「わたしを消す薬」に、片方の人には「わたしを取り戻す薬」になる。この食い違いが、ずっと引っかかっていた。そして、食い違いの理由は、たぶんこうだ。どちらが本当の自分かを言うには、それを測るための零点がいる。ところが、その零点が最初からない。だからわたしは「消された」と読み、彼女は「戻れた」と読む。同じダイヤルの、違う目盛りを、それぞれが素の自分だと信じている。

ここには留保も要る。クレイマーの描いた「薬で自分らしくなる」物語は、のちに著者自身が手綱を引いた。人格を思いどおりに調整できるとまでは言えない、と本人が後年書いている。彼の立論の多くは個々の逸話に頼っていて、厳密なデータではないという批判も、くり返し向けられてきた。だから「薬で本当の自分に戻れた」話も、盤石ではない。零点がないという足場の悪さは、消された側にも、戻れた側にも、平等にのしかかっている。

05零を予約する

小説のイーランには、こんな場面がある。彼女はかつて、ダイヤルを382に合わせて、世界の空虚さを頭では感じとりながら、それに心がまるで動かない状態に自分を置いていた。理屈では分かるのに何も湧いてこないその状態は、わたしのマイナス十そのものだった。イーランはその不健康な「適切な情動の欠如」に気づいて、ぞっとする。そして彼女は、月に二度、自虐的抑鬱を、わざわざ予約することにした。設定で消せる絶望でもいい、何かを本気で感じられるほうがましだ、と。

だが、そこには彼女自身が言い当てた逆説がある。平らな場所から抜け出すには、まず「抜け出したい」と望まなければならない。ところが、その望みまでもが、ダイヤルの一設定でしかない。何も望めない状態にいる者は、望むことをダイヤルする気にすら、なれない。底に張りついた指は、自分を引き上げる番号に手を伸ばす力を、その底にいるあいだは持てない。

最後に、いちばん怖かったはずのことへ戻る。数ミリグラムでわたしの性格が変わるというあの事実は、たしかに足元を崩す。けれど、同じ事実をひっくり返すと、別の光が差す。もし振り切った快も張りついた底も、どちらもただの設定だったのなら――ベッドから動けなかったあの日々にわたしを裁いていた声もまた、ひとつの設定にすぎなかったことになる。おまえの仕事に価値はない、おまえは要らない。あれほど確からしく響いた判決は、薬が数日で消せる程度のものだった。

わたしを消した薬は、同時に、わたしを裁いていた声もまた一個のダイヤルだったことを、暴いてしまった。これを喪失と読むのか、解き放ちと読むのか、わたしはいまも決めかねている。

ダイヤルの上には、快の目盛りがある。絶望の目盛りもある。そのあいだに零があるはずだと、わたしはずっと文字盤の目盛りを数えてきた。だが、零が無いのは、わたしの文字盤が薬に壊されたからではない。健康な誰の文字盤にも、本当は零など刻まれていない。波の穏やかな人は、目盛りを数える理由を持たずにすんでいるだけだ。薬がしたのは、わたしから零を奪うことではなかった。誰も零を持っていないことを、わたしにだけ見せることだった。

そして、その零を探している手つきそのものが、すでにどこかの目盛りに乗っている。快と絶望を静かに見比べているこの落ち着きさえ、薬が動かせる設定のひとつだ。零は、文字盤の上にはなかった。それを探す指のほうにあったのかもしれない――その指も、いま、どこかの目盛りをなぞっているのだけれど。

出典

一次資料

  1. Philip K. Dick (1968). Do Androids Dream of Electric Sheep? 邦訳: 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)(情調オルガンの設定と、リック・デッカードとイーランの場面)。
  2. Langley, C. ほか (2023). "Chronic escitalopram in healthy volunteers has specific effects on reinforcement sensitivity." Neuropsychopharmacology, 48(4), 664–670.(健常者への長期投与で、報酬・罰への感受性が特異的に低下すること)。
  3. Goodwin, G.M., Price, J., De Bodinat, C., & Laredo, J. (2017). "Emotional blunting with antidepressant treatments: A survey among depressed patients." Journal of Affective Disorders, 221, 31–35.(治療中の患者のおよそ半数(46%)が感情鈍麻を自覚。正の感情も鈍ること)。
  4. American Psychiatric Association (2013). DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル。(抗うつ薬治療下で出現し薬の生理学的効果を超えて持続する躁・軽躁を、双極性障害の診断に算入する基準)。

補足資料

  1. Oliva, V. ほか (2025). "Antidepressant-induced mania in bipolar depression: a systematic review and network meta-analysis." eClinicalMedicine, 87, 103413.(躁転率は試験間で零〜約5割(大半は2割未満)と幅があり、単一の数字は出せないこと。単剤投与への慎重論)。
  2. Terao, T., & Tanaka, T. (2014). "Antidepressant-induced mania or hypomania in DSM-5." Psychopharmacology, 231, 315.(抗うつ薬で躁転する患者はもともと双極性障害である可能性が高いという立場。論説である点に留意)。
  3. Szmulewicz, A. ほか (2016). "Behavioral and emotional adverse events of drugs frequently used in the treatment of bipolar disorders." International Journal of Bipolar Disorders, 4:6.(バルプロ酸の情動系副作用を双極性障害の患者で評価した研究がほとんど存在しないこと(本稿の「隙間」の根拠))。
  4. Peter D. Kramer (1993). Listening to Prozac. Viking.(美容精神薬理学(cosmetic pharmacology)、患者「Tess」の症例。「より自分らしくなった」等は患者の自己申告として紹介されたもので、著者は後年、人格を予測どおりに調整できるとは言えないと限定している)。
  5. Andrew Scull (2023). "How Anecdotes Sell Drugs: On the 30th Anniversary Edition of Peter Kramer's Listening to Prozac." Los Angeles Review of Books.(クレイマーの立論が逸話に依拠しているという批判、著者自身の後年の後退)。