
「この目で見た」は信じられるか
部屋の死体が、1年半誰にも見えなかった。『姑獲鳥の夏』の「反則」を、実在の見落とし事例と予測する脳の研究に照らし、「この目で見た」の確かさを測る。
※本稿は京極夏彦『姑獲鳥の夏』の核心的な仕掛けに触れる。未読の人は注意してほしい。
20か月のあいだ身籠ったままの娘がいる――戦後まもない東京に、そんな噂が流れる。舞台は古い産院を営む久遠寺家。娘の梗子は臨月をとうに超えた腹を抱えて寝ついており、夫の牧朗は1年半前、家の中の一室に入ったきり姿を消していた。京極夏彦が1994年に発表したデビュー作『姑獲鳥の夏』は、この不気味な二つの謎から始まる。
真相を先に書く。牧朗は最初から梗子の部屋で死んでいて、死体は1年半のあいだ、その部屋にあり続けた。隠されていたのではない。語り手の関口を含め、部屋に出入りした人々の眼に、それが見えなかったのである。他人の記憶を視る探偵の榎木津だけが、扉を開けた瞬間にそれを認め、関口に突きつける。眼が開いているからといって、見えているとは限らない。君にも見えていたはずだ、と。みな、死体を「この目で」見ていながら、それでも見えていなかったのである。
刊行から30年余り、この仕掛けは読者を割り続けている。部屋の真ん中に死体があって、誰も気づかないはずがない。ミステリとしては反則だ――そういう感想は今も絶えない。もっともな感覚だと思う。ただ、その「ありえない」を判定する前に、突き合わせておきたい出来事がいくつかある。
01飾りとして眺められた死者
2015年10月、オハイオ州チリコシー。金網フェンスに袖が引っかかったまま吊り下がった人影を、目にした住民たちは出来のいいハロウィンの飾りだと思った。火曜の朝に通報が入り、それがレベッカ・ケイドという実在の女性の遺体だと判明する。殴打による殺人だった。
孤立した事件ではない。2005年、デラウェア州では木に吊られた女性の遺体が数時間、車で通り過ぎる人々の視界に入り続けたが、通報はなかなか来なかった。10月末である。誰もが吊り人形の飾りだと思った。2009年、カリフォルニア州では、バルコニーの椅子に崩れた男性の遺体が3日間そのままになった。近隣住民はハロウィンの趣向だと解釈していた。極めつきは2014年、フロリダ州の事例だ。ハロウィンの季節ですらない春に、貸家の清掃に入った作業員が、ガレージにぶら下がる遺体を「前の住人が残した悪趣味なマネキン」と解釈し、抱えて運び出した。人間だと気づいたのは、受け入れ先のゴミ処理場の職員である。運んだ本人は、最後まで気づかなかった。
久遠寺の家で起きたとされることが、種も仕掛けもない路上で起きている。しかも集団で、である。互いに面識のない大勢が、示し合わせもせず同じ結論に着地した。テレパシーも催眠も要らなかった。ハロウィンという時期の文脈が、あるいは作り物と見なす手近な解釈が、その場の全員の脳に同じ筋書きを配っていた。それだけで足りた。
02合議としての知覚
なぜこんなことが可能なのか。手がかりは、知覚のモデルを裏返すことにある。目はカメラで、脳は映像を受け取るスクリーンだ、という素朴な描像を捨てる。哲学者アンディ・クラークが2013年の論文で整理した予測処理の枠組みでは、脳は絶えず「次に何が見えるはずか」を先回りして生成し、感覚器からの入力とは、その予測と実際のずれ――予測誤差――だけを報告する信号として扱われる。見えているものは、入力の写しというより、予測と誤差報告の合議の結果である。そして合議には力関係がある。予測が具体的で確信度が高いほど、入力側の発言権は下がる。
実は『姑獲鳥の夏』の京極堂が、物語の冒頭で延々と語ってみせる蘊蓄が、ほぼこの見取り図である。彼はそれを税関の比喩で語る。外から入った情報は脳という検閲を通り、納得のいくものだけが意識の舞台に上る。脳が通さないものは、開いた眼の前にあっても見えない。これは京極堂の独創ではない。知覚を脳の能動的な推論とみなす見方はヘルムホルツにさかのぼり、グレゴリーの「知覚は仮説である」(1966年)を経て、1994年にはすでに知覚心理学の一つの本流だった。京極夏彦はその学説を正確に踏まえたうえで、蘊蓄の一つひとつを、最後に露わになる死体の伏線として組み上げている。予測処理とは、この古い知覚観に神経科学の数式が与えられた、新しい名前のことだ。
この力関係は実験で測れる。1999年、ダニエル・シモンズとクリストファー・チャブリスは、バスケットボールのパスを数える課題の最中に、ゴリラの着ぐるみが画面を横切る映像を被験者に見せた。約半数がゴリラに気づかなかった。素人だからではない。2013年、トラフトン・ドリューらは放射線科医24人に肺結節の検出という日常業務そのものの課題を与え、最後のCT画像に結節の48倍の大きさのゴリラを埋め込んだ。83%が見落とした。視線追跡装置の記録では、見落とした医師の多くが、ゴリラの位置を直接見ていた。
網膜に像を結ぶことと、見えることは、別の工程なのだ。目が向いていても、予測の側に居場所のない対象は、合議で否決される。
もっとも、ゴリラの見落としを予測の一語で説明し切るのは乱暴だ、と釘を刺す研究者もいる。古典的な整理では、あの現象は非注意性盲目、つまり限られた注意の資源がパスの計数に食われた結果であって、脳が何を予測していたかは二の次になる。筋の通った指摘で、注意と予測のどちらが主犯かは今も決着していない。ただ、ハロウィンの事例はこの留保をすり抜けてしまう。通行人の注意はフェンスの人影そのものに向いていたし、フロリダの作業員に至っては対象を両腕で抱えていた。注意が向いた先で、それでも見えない。そこを説明できる枠組みは、予測の側に分がある。
03筋書きのない現場
それなら、と当然の疑念が湧く。事件や事故に居合わせて、凄惨な場面を目撃した人は大勢いる。彼らの脳も同じ予測機械のはずなのに、「見たけれど、見えなかった」という証言はほとんど聞かない。血や損傷は、むしろ嫌というほど見えてしまい、長く残る。久遠寺の家では起こり続けたことが、路上の事故では起きない。この差は何か。
第一の差は、対立仮説が事前に配られているかどうかである。ハロウィンの遺体が飾りとして眺められたのは、10月の街が「人体らしきものは作り物」という筋書きを常備しているからだ。久遠寺の家では、「牧朗は失踪した」という筋書きが最初に配られた。閉ざされた部屋、消えた婿、身籠ったまま月を重ねる娘。家の中の誰もがこの物語の登場人物で、死体の置き場所は物語のどこにもない。一方、事故現場には、血と損傷と悲鳴を説明してくれる代替の筋書きが用意されていない。誤差の奔流を吸収する予測が存在しないから、誤差がそのまま知覚を塗り替える。凄惨さが見えてしまうのは、予測が完全に失敗しているからである。人が見えなくなるのは、強く正確な予測があるときだけだ。
筋書きは、隣人の顔からも配られる。1968年、ビブ・ラタネとジョン・ダーリーは、質問紙に答える被験者のいる部屋に白い煙を流し込んだ。一人でいた被験者は75%が6分以内に報告した。反応しないよう指示された同席者が2人いると、報告は10%まで落ちる。煙を見ていないからではない。隣が平然としているという事実が、「異常なし」の証拠として合議に加わるのだ。閉ざされた部屋の前で誰も騒がなければ、その沈黙自体が筋書きの補強になる。
041年半という時間
第二の差は、時間である。現実の知覚には撮り直しがきく。視線は1秒に数回跳び、入力は更新され続け、予測誤差は蓄積する。どれほど強い予測でも、間近で凝視される対象を相手に、ふつうは数秒しか持ちこたえられない。ハロウィンの誤認が数時間から数日続いたのは、距離があり、対象が静止していて、近づいて確かめる動機が誰にも生まれなかったからだ。静止した死体はanimacy(生物らしさの知覚)の警報を鳴らさない。怪しまれないから検証されず、検証されないから誤差が蓄積しない。フロリダの作業員が抱えて運んでもなお気づかなかったのは、腕に伝わる重さも冷たさも、「よくできたマネキン」の筋書きに吸収されたからである。
ところが『姑獲鳥の夏』は、この条件を平然と大きく踏み越えてみせる。同じ家で、1年半。部屋には出入りがあった。読者が反則と呼ぶ直感は、だから条件の読みとしては正しい。再サンプリングの機会がこれだけあれば、予測は本来崩壊する。小説がその上に積むのが、関口の抑圧と家族ぐるみの否認、そして京極堂の言う「見たくないものは見ない」という心の働きである。感情が誤差信号の重みを下げる、というもう一つのダイヤル。作中でこの死体が見えなかったのは、当事者たる家族と、部外者でありながら過去を抱えた関口である。一方で雇われの使用人夫婦には見えていて、その異常さに耐えかねて家を去ったと京極堂は言う。関与が深く、受け入れがたい者ほど見えない――知覚が心の側に傾く様子まで、小説は書き込んでいる。ここは実験室の裏づけの半歩外にあって、だからこの小説は、推理小説の顔をした幻想小説の手触りを最後まで残す。
05残らない証言
事故や災害の目撃者が実際に残している証言には、よく知られた型がある。映画を観ているようだった。スローモーションだったと語る人も、自分の体を外から眺めていたと語る人もいる。臨床ではperitraumatic dissociation(周トラウマ期の解離)と呼ばれる反応で、現実感の喪失や時間感覚の変容を含み、のちのPTSDを予測する最大級の心理的リスク因子だと複数のメタ分析が報告している。
この型は、見間違いの裏返しとして読める。対象の認識は成功していて、死体は死体と分かる。失敗しているのは、それに「現実」というタグを貼る工程のほうだ。「見たけれど、見えなかった」の隣には、「見えたけれど、本当のことに思えなかった」が並んでいる。予測を裏切る度合いが小さければ知覚が負け、大きすぎれば現実感が負ける。どちらの証言も、知覚が合議であることの傷痕だ。
では、記憶のほうは体験を忠実に保存しているのか。こちらは実験の裏づけがある。1974年、エリザベス・ロフタスらは自動車事故のフィルムを見せた被験者に、車の速度を尋ねた。質問の動詞を「ぶつかった」から「激突した」に変えるだけで、推定速度の平均は時速34.0マイルから40.8マイルへ上がった。1週間後、映像に存在しなかった「割れたガラス」を見たと答えた者は、「激突」と聞かれた群で32%、「ぶつかった」群では14%。問いの言葉ひとつが、記憶の中身を書き換えていた。のちに誤情報効果と呼ばれる研究系譜の、これが出発点である。
とすると、「見たけれど、見えなかった」の側の証言が見当たらないことにも、別の読み方が生まれる。知覚が数秒で更新されるとき、記憶も一緒に更新される。マネキンかと思った一瞬が仮にあったとしても、その空白は「見た」の物語に均され、振り返れば最初から見えていたことになる。語られないのは、体験になかったからだと言い切れない。記録に残らないだけ、その可能性が消せないのだ。証明の当てはないが、密室とハロウィンの事例を並べたあとでは、そう読むほうが自然に思える。「この目で見た」という証言が発行されるのは、いつも、この編集が終わったあとである。
06憑き物が落ちるまで
死体が見えなかった当人の一人が、語り手の関口である。彼は自分の身に起きたことを、こう書きつける。
私は〈死骸がない〉という仮想現実を生きていたのだ。これは――幽霊の裏返しだ。
死んだ者に逢いたい心が、いない者を見せるのが幽霊なら、受け入れがたい死が、いる者を消すのが今度の一件だった。どちらも同じ脳の働きが、ただ向きを逆にして現れたにすぎない。この反転を解き、見えなかった死体を皆の眼に返してみせるのが、京極堂の役目である。彼は探偵の仕事を推理と呼ばない。憑き物落としと呼ぶ。誰かに取り憑いた物語を外す作業のことで、予測処理の言葉に置き換えるなら、強すぎる事前予測を降ろし、誤差信号に発言権を返す手続きである。彼の口癖「この世には不思議なことなど何もないのだよ」も、合理主義の宣言というより、その延長で読める。脳が筋書き越しに世界を見るのは故障ではなく通常運転で、幽霊も、見えない死体も、その運転の癖から立ち上がる。不思議が存在しないのではない。すべてが等しく不思議だから、数え上げる意味がないのだ。
読者は『姑獲鳥の夏』という小説を、語り手である関口の眼を借りて読む。だから死体は、読者にも1年半見えない。作者が数百ページかけて配った筋書きの中で、わたしたちの脳は登場人物と同じ誤認を再演する。小説とは、他人の脳に予測を植える装置の、おそらく最も洗練された形である。そしてページを閉じても、装置の外の世界は変わらず筋書きで見えている。ちがうのは、こちらの世界に京極堂がいないことだ。小説では、扉を開けて死体を名指す者が最後に来る。現実では、筋書きを配られた当人が、配られたこと自体に気づかないまま見続ける。憑き物は、自分では落とせない。
出典
一次資料
- 京極夏彦『文庫版 姑獲鳥の夏』講談社文庫(原本: 講談社ノベルス、1994年)。
- Drew, T., Võ, M. L.-H., & Wolfe, J. M. (2013). "The invisible gorilla strikes again: Sustained inattentional blindness in expert observers." Psychological Science, 24(9), 1848–1853.
- Simons, D. J., & Chabris, C. F. (1999). "Gorillas in our midst: Sustained inattentional blindness for dynamic events." Perception, 28(9), 1059–1074.
- Clark, A. (2013). "Whatever next? Predictive brains, situated agents, and the future of cognitive science." Behavioral and Brain Sciences, 36(3), 181–204.
- Latané, B., & Darley, J. M. (1968). "Group inhibition of bystander intervention in emergencies." Journal of Personality and Social Psychology, 10(3), 215–221.
- Ozer, E. J., Best, S. R., Lipsey, T. L., & Weiss, D. S. (2003). "Predictors of posttraumatic stress disorder and symptoms in adults: A meta-analysis." Psychological Bulletin, 129(1), 52–73.
- Loftus, E. F., & Palmer, J. C. (1974). "Reconstruction of automobile destruction: An example of the interaction between language and memory." Journal of Verbal Learning and Verbal Behavior, 13(5), 585–589.
- Gregory, R. L. (1966). Eye and Brain: The Psychology of Seeing. Weidenfeld & Nicolson.
補足資料
- NBC News. "Dismissed as Halloween Prop, Body Turns Out to Be Murder Victim"(2015)。
- Snopes. "Was a Suicide Mistaken for Halloween Decoration?"
- HowStuffWorks. "Yes, Real Human Corpses Have Been Mistaken for Halloween Decor"
- Breh, D. C., & Seidler, G. H. (2007). "Is peritraumatic dissociation a risk factor for PTSD?" Journal of Trauma & Dissociation, 8(1), 53–69.


